|
|
|
|
|
|
|
ある方向で既に一定の成果をおさめている作家さんが突然それまでとは全く違うイメージの作品を書いたりすると、自分がその人に感じていた可能性の限界がぐっと押し広げられ「すごいなぁ・・・」と圧倒・感心させられてしまいます。
その最たるものがこれじゃないか?
と思い久々に読みたいなぁと思ってあたりを探したのですが、本棚が食べてしまったのかみつかりません・・・ いつもこうだ! いつだってそう!! |
|
|
|
|
時節柄、少女と女性の違いについて考えることがよくあり(時節柄?)ひとつやっぱり大きな違いだなと思ったのは、「主体」の存在です。ちょっぴりマニアックな話になってしまって申し訳ないのですが、参考になるのが女子フィギュアの安藤美姫とキムヨナ。
さらにマニアックな話になってしまって申し訳ないのですが、彼女たちのスケーティングをよく見たときに、スパイラルシークエンスに違いがあるのがわかると思います。 かなりトリビアルな話になってしまって申し訳ないのですが、片脚を後ろにあげてそれを片手もしくは両手でつかみ、そのポーズのまま前または後ろに滑るという技。そこにチェック! 安藤美姫は多少グラグラッとするのですが、キムヨナはぴくりともしません。ここに少女と女性の違いがあると思いました。 技術の差では? と思われる方もいるかもしれません。たしかにそれはそうなのですが、キムヨナの完璧なスパイラルに「少女」を感じ、安藤のグラグラするスパイラルに「女性」を感じた私のこの感性って何? というのがむしろ興味の発端で、そこから「やっぱ主体」という考えに至ったのが順番だったのでした。 例えば浅田真央のスパイラル。これもキムヨナと同様もしくはそれ以上に完璧で、やはりピクリともしません。けど彼女には「少女」を感じないのです。年齢も技術もほぼ同じなのにキムヨナに「少女」を感じ、浅田に「少女」を感じないというのは、やっぱり主体の有無の問題で、浅田の場合、どんなに完璧に演技をこなしていても常に「私」が見えてしまいます。それはジャンプをしたあとに笑顔が出たりガッツポーズが出たりということももちろんあるのですが、例えばもう少しでジャンプをするという刹那、両手をチョンと下に置くような仕草をし、それはおそらく演技の内容とは全く関係ありません。おそらくクセです。真央ちゃん自身の。そういう「自分」が見える部分が浅田の滑りには多く、一方でキムヨナの滑りにはほとんど見えません。また、先ほど述べたように安藤のグラグラするスパイラルにもやはり「自分」が見え、「今まさにこのスパイラルを捌いてる私」って感じで、いっそあざとく私の目には映るのです。 キムヨナの「動きと一体化している」感じ、「演技の人物になりきってしまってる」感じはそこに主体があるべきところを不思議と押し隠してしまい、むしろ「主体ないんじゃないの?」 心の中を読むことができず、同時に不可思議さ、純粋さ、神聖さが発生します。それが私の中の「少女」の属性と大いに結びついており、したがってキムヨナは「少女」、雑音の混じっている安藤や浅田は「女性」というくくりになるのだなと思いました。 ![]() だけど「女性」になるや否やそういった不可思議さ、純粋さ、神聖さは永久に失われてしまうのかというと決してそうではなく、まさにその稀有な女性のあり方を描き出しているのが谷崎潤一郎の『痴人の愛』です。
この作品にはナオミというかなりの悪女が出てくるのですが、彼女が少女だったのはおそらく最初のほんの数ページだけ。その後はどんどん主体をもって周囲の男性たちを誘惑するようになります。しかし最後の最後に彼女は再び、また不可解で純粋で神聖な存在へと変化を遂げるのです。そこで語り手が書いているのが、 私の胸にはただ今夜のナオミの姿が、或る美しい音楽を聴いた後のように、恍惚とした快感となって尾を曳いているだけでした。(中略)今夜のナオミは、あの汚らわしい淫婦のナオミ、多くの男にヒドイ仇名を附けられている売春婦にも等しいナオミとは、全く両立し難いところの、そして私のような男はただその前に跪き、崇拝するより以上のことは出来ないところの、貴い憧れの的でした。(p.335) このときナオミは西洋人のような服装をし、肌までが恐ろしいほどの白さになって、最初語り手はそれが彼女だとは全く気づきません。おそらくここでも「主体が見えなくなってしまうほどの変身」が不可思議さや純粋さや神聖さを生み出し たぶん「女性」であることを極めればそれはそれでひとつの「象徴」のようになって、主体の雑音が消えてしまうのでしょう。 |
|
しばらく前にNHKで携帯電話のデザインの最前線をうつしたドキュメンタリーがやっていて、見ました。携帯を閉じた後の数秒間、本体の部分にピンク色の蝶々が飛ぶ(動く光が表現する)デザインであったり、あとはスライドさせる形のものでなんかすごいのだったり。
そんな中、日本人のクリエーターが外国のデザイナーたちと新商品のデザインについて会議をしている場面があったのですが、そこで彼が提案したのが "PATINA" でした。これは広辞苑をひくと、「青さび、緑青、(年代を経た家具などの)古つや、古色、さび、(長い間にそなわった)外観、風貌、趣き」などとなっています。 彼が言うには、「新しさだけが価値だろうか」と。例えばピンク色の蝶々やスライド式のすごいの等はまさにテクノロジーの最前線という感ありありだったのですが、そこから目を転じて、古さに価値を見出してみてはどうだろうか。時間を経るに従って本体に刻まれる傷、汚れ。それらをユーザー個人個人のオリジナリティーと考えることはできないだろうか。その「変化」をデザインに組み込めないだろうか。 ![]() ![]() 例えば下にあげたじいちゃんの記念碑も、いまはあんなに真っ白ですが一ヶ月ほどたてば色がだいぶ落ち着いて、さらに一年、二年と年を経るうちに石ならではの風格が出てくるといいます。私は「時間が作り出す変化」というのは基本的に大好きなので、お坊さんが「今後石ならではの風格が」とおっしゃったときには「あーそうなんですね〜」と大きめにリアクションをしてしまったし、例えば定期入れとかも革製で、年々深みを増していく色の変化を楽しみにしています。 ![]() だから日本人クリエーターが提案した"PATINA"はまさにツボで、でもそれは他の外国人たちにとってもかなり新鮮で刺激的なアイディアだったようでした。さらにはデザインのヒントを得るために京都を訪れるデザイナーも出てきたり。今後は「変化する携帯」「古さが味になる携帯」がナウいということになるようです。 けどみんなが古い携帯を大切に大切にするようになったらデザイナーは失業。 |
|
|
|
給食の時間に『ロード』が流れ、「これは人が死んだ歌だ」と誰かが言い出してとても恐い思いをしたのですが、それ以上に恐かったのがこの本です。
子供ながらに「これはやばい」と思い、また作中の世界の匂いが妙に伝わってくる気がして、恐いもの見たさで何度も読みました。 |
|
|
|
お茶を習っています。
「お茶」というと皆さん茶せんでシャッシャッシャッとあわ立てるようにやってこう、する光景を連想されるのではないかと思うが、それは「薄茶」(うすちゃ)といって、茶のたて方の一つに過ぎません。 もうひとつ、「濃茶」(こいちゃ)というのがあり、むしろこちらが正式。 正式っていうと違うか。とりあえず、薄茶よりは濃茶の方が重要なやつらしいのですが、それは回し飲みをするから。薄茶はたくさんたててお客にめいめい碗が渡るようにするのですが、濃茶は客が何人いようが一碗しかたてません。それを客がなんとなく目測で等分しながら自分のぶんを飲み、次の人に回すのです。和を尊ぶ茶席においてはこの回し飲みこそが正式な形式らしく、よって濃茶が重要ということに。(ちなみに「濃茶」というのは茶が濃いから。薄茶のようにシャッシャッとやらず、たくさんの茶に少しの湯を注いで練るようにたてます) この相互依存関係。 そもそもお茶席自体、亭主と客との共謀のもとに成り立っており、単にもてなす側、もてなされる側というだけでは成り立たない暗黙の了解がはりめぐらされています。そして先ほど述べたように正式な席になればなるほど客同士の依存関係も濃密になり、果てはお茶席全体が相互依存の巣窟のような状態に。 ![]() そこで最近お茶の稽古をしながら想像するのは、「このお茶席に自分の命がかかっていたらどうなるのだろうか」ということ。これは自分が客の側にいるときによく考えるのですが(亭主のときはそんな余裕ない)、例えば亭主が茶杓で茶を掬い、茶碗に入れ始めた頃にお菓子を食べるのが作法ということになっています。この菓子に毒が入っていたとして、 それを飲み込んだ時点で私の命はあと三分ということになります(だいたい三分くらいがちょうど良い)。で、そのまま放っておけば私も隣にいる他の客もみんな死んでしまうのですが、実はいままさに亭主がコスコスしている茶こそが有効な解毒剤であり、それを飲めばまた生き延びることができる。 したがってこの時間、客の命運は亭主にかかっているということになります。もし亭主が茶をこぼしたりして手間取れば、毒がまわって客は死んでしまいます。あるいは亭主が「客なんてどうでもいい」と思ってわざとゆっくりすることもあるかもしれません。でもそこはお茶席の共謀。信頼してただ待つしかありません。 そして無事、三分以内に茶が出されました。でもまだ安心するわけにはいかないのです。正客(しょうきゃく)といっていちばん上座に座っている人は最初に茶を口にすることができるので良いですが、自分が末席に座っていればいるほど、茶が回ってくるのを辛抱強く待っていなければなりません。仮に前の人が「毒消さなきゃ!」と必死になって茶をぜんぶ飲んでしまったとしたらもう自分には回ってきませんから、やはりそれはそこで終わりということに。「ちゃんと残してくれるのだろう」とは思いながらも、心の中は冷や冷や。ちなみにあと何秒残ってるんだろう…… そして三分が経過。 末席の客が茶を飲み終わり、そこにいる全ての人間が「もう少し生きられる」ことが決まった時点で、お茶席の相互依存関係はいよいよ美しく強固なものになるのです。 |
|
| ホーム |
|




























